我が家にも五月人形があった。武者の鎧兜を脱がせ無惨に解体したのは私です。




2004年5月05日の title句(前日までの二句を含む)

May 0552004

 螫さるべき食はるべき夏来りけり

                           相生垣瓜人

夏。この言葉に触れただけで、何かすがすがしい気分になる。♪卯の花の匂ふ垣根に ほととぎすはやも来鳴きて 忍音(しのびね)もらす夏は来ぬ。佐佐木信綱の「夏は来ぬ」が、自然に口をついて出てきたりする。私自身もかつて「美しい五月」という短い詩を書いたことがあって、この季節になるとふっと思い出す。立夏の雰囲気にうながされるようにして、自然にすらすらと書けた詩だった。俳句でもすがすがしさを詠んだものが大半だが、なかにはぽろっと掲句のように臍が曲がったようなのもある。来る夏の鬱陶しさを詠んでいる。あっと、その前にお勉強だ。出だしの漢字「螫」を読める方は少ないだろう。むろん私も読めなかったので、漢和辞典を引いたクチだ。音読みでは「せき」、訓では「さ(す)」と読む。つまり「螫(さ)さるべき」と発音し、意味は「毒虫がさ(刺)す」ということだそうだ。ということで句意は、とうとう蚊などの虫に刺され食われる鬱陶しい季節がやってきたなあ、イヤだなあと、そんなところだろう。すがすがしいなんぞと、呑気なことは言ってられないというわけだ。すがすがしさを言う人は、考えてみれば、初夏のごく短期間をイメージしているのだけれど、作者はそのもっと先の本格的な長い夏場を思い浮かべている。それが同じ季語を使いながらも、句の気分の大きな差となって現れてくるのだ。面白いものである。しかし、立夏と聞いて夏の鬱陶しさを思うのは、あながち偏屈な感受性と言うわけにもいかないだろう。それは例えば「立冬」と聞いて、多くの人が長い冬の暗い雰囲気を想起するのと、精神構造的には同じことだからだ。したがって当然、先の臍曲り云々は取り消さねばなるまい。『新歳時記・夏』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)




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